子供への躾と、夢を持つ力の関係性

躾の厳しさと、その子が夢を持つ力の強さは反比例しているっぽい。なんでそんな風に考えるようになったのか、自分の頭の中をまとめてみる。

人によって躾のレベルは異なる。食事だけを考えてみても私は気にならない程度のことが嫁には気になるようだ。夫婦でも意識の差があるんだから、社会全体で見たら躾の考え方の差は非常に大きい。

どこに境界線を引いて躾をするか。ここまでなら許す、これ以上は叱る。正解は無い。仮に正解があるとすれば他人からの評判を気にした過渡の躾はしないことだと思う。自分が気になることだけ注意すればいい。それが私のスタンスだ。

しかし、私が気になる最低限のことだけを注意するにしても、息子たちから見れば親の考え方を一方的に押し付けられている。自分たちがやりたいことを一方的に我慢させられる。躾はその繰り返しだ。何回も注意されるうちに息子たちは自分のやりたいことを無意識に我慢するようになる。諦めって言ったほうがしっくり来るかも。

つまり、躾は諦めを教えることって言っても過言じゃない。

それに対して夢はどうだろう。

夢は、諦めないことの大切さを教えている。そして私は育児をする中でそれを最重要視している。息子たちが夢を持ち続けて成長できるような教育をすることを大前提に考えている。

なぜかといえば、夢を持てば目標ができる。目標があれば自主性が生まれる。人から言われて動くのではなく、自分の考えで人生を歩むことができるようになるからだ。

夢は挑戦する力の源ってイメージ。

厳しく躾をしながら、夢を持て!!と教える矛盾

躾は諦めの教え、夢は挑戦し続けることの教えだと分かった。ここに矛盾を感じてたんだね。

極端な例を挙げる。竜が食事を終えたあとに皿を片付けるときのことだ。竜の椅子の後ろにはカウンターがある。そこへ皿を置くまでが彼の仕事なんだが、椅子から降りずに体のひねりだけで皿を片付けようとする時がある。上半身を90度以上ひねらなければならない。

「ちゃんと椅子から降りて片付けなさい!!」と当然のように叱る。「だいじょうぶ!!」と竜は言う。彼には挑戦だったのかもしれない。彼には私が「挑戦するな!!諦めろ!!」と言ってるように聞こえたかもしれない。

そして皿の片付けに失敗した。ひねりが足らず、重ねた皿がガチャってなってマヨネーズがカウンターにビチャってなった。私は「やっぱり!!」と怒る。

その時の正解は「挑戦には失敗が付きものだ。気にするな」だったのかもしれない。

今のは極端すぎる例だけど、こういう小さな積み重ねが夢を持つ力を強めたり弱めたりするんだろう。

父親の私はそれを忘れないようにしなければならない。

最近の挑戦

なるべく息子たちの挑戦を理解すると決めたパパ。最近の挑戦でいえば鉄平の幼稚園前の時間だ。鉄平は幼稚園の送り時間ギリギリまで歌を歌ったり踊ったりしている。いかにギリギリまで遊び、なおかつ遅刻しないようにするか。そんな時間への挑戦をしている。

以前の私なら「給食セット用意しなさい!!」と叱っていた。今は一歩進んだ対応をしている。私が給食セットを用意し、鞄や帽子、制服を玄関に用意しておく。

鉄平には幼稚園出発ギリギリまで好きにさせている。すると幼稚園へ行くのもウキウキして出発できるようになった。私が「もう行くよー」と言うと、「いこういこうー♪」と楽しそう。

鉄平は歌のお兄さんの真似が好き。キッチンからマイクっぽいものをゲットして歌ってる。マイクを自作するあたり、やっぱり自主性を尊重した結果だと思う。これが積み重なれば、夢を保つ力に必ずつながる。

そして、そんな兄の背中を見て育つ陽多にも良い影響を与えているはずだ。

以上。